第9章 ソフト・テクノロジーとハード・テクノロジーに関するトークページ
rashita.iconこの章についての雑談などを。
rashita.iconどうして機械を基準にしてわれわれ人間を判定するようになったのか?
まずこれは西洋的かつ近代的な視点でしょう。
その上で何が言えるのか?
yasumi.icon 別の本で、西洋化・近代化される前の1700年代の日本のからくりと、西洋のオートマタを「ロボットの原型」と捉え、その違いを考察した文章を読みました。ノーマンの議論に関係があると思ったので、少し引用させてください。
「客がタイミングよく湯呑を取ることで、茶運び人形のパフォーマンスが完結するのである。つまり茶運び人形とは、からくりと人間がコラボレーションする遊びなのだ。ヨーロッパ人が茶運び人形を作るとしたら、客の前で人形が自動的に止まる機構を付けるのではないだろうか。そうすれば客は湯呑を取るタイミングを気にする必要がなく、完全な自動人形が実現する。」『完訳 からくり図彙』より 日本的な発想には、ノートや文具、釣りや大工などの道具類を、自分なりに工夫して使う余地・無駄こそが楽しいという感覚があるように思います。私はノーマンの「人間中心」に賛同しますが、設計に反映する方法について少しひっかかってしまうのは、この感覚があるからなのかもしれません。
rashita.icon「弱いロボット」の話を想起しますね。 yasumi.iconあぁ、まさにです。2冊とも面白そうです読んでみます。下に書かれている「道具をどうデザインするか」の一つの方向性としてどうかなと思いつつノーマンの議論を見返してみます。
TsutomuZ.icon 労働=奴隷=機械=ロボットという西洋の価値観だと思いつきます。
著者はこの価値観は当然だとしていることが興味深い。
yasumi.iconカレル・チャペックは園芸家だと思っていたので、含みがありそうです。
rashita.icon論理は人間の認知のモデルとしてはふさわしくない
論理は道具だということ。それも慣れない第三外国語くらいの距離。
頭がいい人は「論理」を至上とし、それに乗れない人を劣ったものとして観がちだが、それは根本的に間違った視点。
でもって、その観点は、実は「期間を基準にして判断している」という価値観と通底しているのではないか。
rashita.icon道具をどうデザインするか(特にソフトなテクノロジーにするために)
rashita.iconわれわれは質問も回答も実ははっきりしていないことが多い。
ダイレクトに「答え」や「情報」を手にするものではなく、少しずつインタラクションを通して「近づいていく」ようなものが好ましいと言えるか。
choiyaki.icon望む情報を得るためには、その方法しかないのではないか?とも思えます。
rashita.iconとは言え、昨今のメディアではまさにダイレクトに「答え」を提供している(あるいはそうした態度を取っている)節もあり、そのギャップがどこから生まれてくるのかが気になりますね。
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